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神経内科

高齢者がよく生きるためのQ&A

物事を認識する、とは、どういうことですか ?

物事を認識するとはどういうことかを、言葉で説明するのは大変難しいことです。例えば、ボールが飛んできた、咄嗟に、反射的によける動作をします。自分の方向にボールが飛んできた。この体勢では、ボールが顔に当たるかもしれない。と、一瞬のうちに判断し、行動します。この時、目でボールを見ることができなければ、当たってしまいます。目が認識の必要条件です。「当たる」「危ない」という情報は、例えば、記憶中枢である海馬を通って、前頭葉へ伝わり、即座にボールをよける動作となります。悠長に「ボールが飛んでくる」と言葉にして、認識している訳ではありません。認識とは、言葉にならない、漠然とした感覚を含んでいます。

さて、ご質問の「物事を認識する」とは、もちろん、言葉化できるものであると思います。脳の進化、あるいは人類への進化の過程を辿って、認識するということを見てゆきましょう。アメーバの時代、もちろん目も言葉もありません。臭いを嗅いで、よいものか悪いものかを判断し、よいものなら口に入れ、排泄します。進化につれて、五感が発達してきます。同時に記憶の回路も出来てきます。周囲の状況を総合的に判断するために、五感からの情報を、過去の記憶と照合するために、情報を整理するために、言葉が利用されます。言葉化された段階で、その文章が一つの認識となります。確固たる認識となるためには、何度も試され、正しいことが証明されないと、その人の認識とはなりません。認識を研ぎ澄まし、深化させるには、ですから、常に「言葉にする、文章にする」努力が必要だと思われます。

若い頃は、確たる認識論がないために、思い悩み、アーでもない、コーでもない、行動する事で認識が試されるなどと、自分がヒーローにでもなったかのように、過激に振る舞うこともあります。砂浜の砂を両の手ですくっても、指の間からこぼれ落ちるように、物事の本質を認識することはかなわぬことです。言葉で表現した途端に、本質:言いたいことはすり落ちて、抜けてしまいます。

近代合理主義の祖とされる、フランスの数学者デカルトは、「我 思う ゆえに 我 在り」
cogito ergo sumという文章で有名です。この「思う」というところを、「言葉にする、文章にする」と置き換えてみると、その意味がよく理解できます。私は今思っている、考えている、言葉にしている、文章にしている:だから私は存在している。言葉にすると、もう一人の自分がはっきりと見えます。存在しているからです。自分の存在を言葉化し、他者に伝えることができれば、迷いは少なくなります。
以心伝心、阿吽の呼吸、拈華微笑 言外に分かり合えること、真理は言葉の外に在るということを仏教は伝えています。お釈迦様が蓮の華に手をかざし、弟子の微笑に微笑み返し、真理を伝えた、とされる拈華微笑ですが、この微笑はピンからキリまであります。
莞爾として笑う赤ちゃんの微笑から、モナリザの微笑まで。関係性の中で生きている人間にとって、言葉で、自らの認識を他者に伝えることが大事であると思います。

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